男 俺はいつも同じ場所で上がったり下がったり。これじゃまるでエレベーターだな。これで生きている意味なんてあるのだろうか?
男 ああ、きょうも上がったり下がったり。でも、昨日と少し違って、ちょっと景色が目に入って来たぞ。階段で上り降りしているみたいだ。これだけでもずいぶん気持ちが違うものだなぁ。
男 毎日同じところを上がったり下がったりしていると、ちょっとの違いでも敏感に感じるなぁ。
女 あのぅ、あなたは何をなさっているんですか?
男 え? 俺? いや、私ですか?
女 はい、あなたです。すみません、突然話しかけて。
男 え、いや、あの、その・・・・(動機が激しくなる)
女 私、あなたのことずっと前から知っているんです。
男 えっ?
女 毎日同じことを続けていらして、凄い人だなぁと思っていました。
女 亡くなった父がよく言っていたんです。同じことを繰り返すのは根性がいるって。
女 それから、こんなことも言っていました。外から見ると同じように見えても、実は目には見えないくらい違っていることがあるって。
女 それは、意識して違う場合と、無意識に違う場合があるって。
男 !!
女 私ね、あなたは意識していると思ったの。
男 え? どうして?
女 それはね、あなたの氣が変わって来たから。
女 前のあなたの氣は暗かったけど、最近のあなたの氣には光を感じるのよね。だから、お声をかけてみたくなったの。
男 ・・・・・
* * *
それからというもの、女は毎日男に声をかけるようになりました。
最初はぎこちない返事をしていた男も、だんだん表情が明るくなって、同じ場所で上り降りすることが楽しくなってきました。
というのも、実は、男は毎日意味のない登り降りをしている自分から、ある日意味のある登り降りにしようと決意した日があったのでした。
それからしばらくして、女に声をかけられたのでした。
男 誰も見ていないと思ったけど、どこかで誰かが見ているんだな。こんな空気のようなことを感じられる人が世の中にはいるんだな。あ、そうか。俺がエレベーターから階段に変わったような感じがしたときは、あの人が俺のことを意識してくれたときなんだな。
女 お父さんは寡黙な人だった。毎日同じことをしていた。いや、きっと同じように見えただけなのだ。だから、出来上がってくるものが何年か経つと変化していた。だから私はあの人の変化がわかった。
女 お父さんは「紙一枚の進歩」という言葉をつかっていた。外から見たら同じように見えても、実は薄紙一枚ほどの変化をしておかないと長い歴史は築けないと言っていた。それが出来なければ老舗といえども淘汰されてしまうのだとも言っていた。
男 俺がエレベーターから階段に変わったように感じたとき、きっと紙一枚の進歩があったんだな。進歩ってグイッと目に見えるものかと思ったけど、目に見えなくても進歩につながるのか。
男 ああ、諦めなくて良かった。だって、桂剥きができるようになったから。
* * *
女 私たちって桂剥きに似ていますね(^^)
男 え? 桂剥き?
女 はい、桂剥きです。だって、あなたは同じ場所で上り降りしていて、私はせっせとあなたのところに押しかけていくでしょ? まるで、包丁と大根の関係みたいじゃないですか(^^)
男 !
女 あなたが上がるとき私は押しかけていくの。あ、正確には左指に誘導された大根が私ってことね。その私があなたのところに転がり込んで行くと、あなたが上に上がる刃先で私をスーーッと切ってしまうの。ああ、残酷(笑) でもね、不思議と痛くないのよ。切れる包丁で細胞を切ってくれるからなのね。新札で指を切ってしまうのと似てるわ。気づかないうちに切られてるの。だから、ピカーッと切り口が光るのよ。
女 でもね。
男 ?
女 切れない包丁で刃先がこっちに向かって来ると、もうそれだけで怖くて身構えてしまって、痛いから細胞が悲鳴を上げるの。だからちっとも光れないの。これって、まな板の上に寝かされていたら、私がギロチンで切られるのと同じことだもの。細胞が引きちぎられるから、光れないのは当然よね。
女 どうせ切られる運命なら、私は痛みを感じないで、死んでからも輝きを残したいわ。
男 !!!!!
(蓮根の桂剥き 京料理人 中川善博 マクロビオティック京料理教室 むそう塾)