きょうは久しぶりにお裁縫をしました。
糸を通したり、針を持ったり、ハサミを使ったり、アイロンをかけたり、全部手を使うことばかりです。
手は使っていても頭ではあれこれ考えたり思いを巡らしたり、そんな時間がとっても貴重で、心が落ち着いて、本当に癒されました。
私は母がお針仕事をしているそばで遊ぶのが好きでした。
私のお裁縫箱には母が教えてくれて作った針刺しがあります。
母が着ていた着物の端切れで、私が小学生のときに作ったものです。
この針刺しを見て、亡き母が最後まで手を動かしていたことを思い出しました。
最後に私が母に会ったのは、亡くなる3ヵ月前、病院のベッドの上にお座布団を敷いて、その上にきちんと正座して、編み物をしていました。
「編み物は狭い所でもできるから」と言って、少し浮腫んだ指を器用に動かしていました。
ひ孫の靴下を編んでいたようです。
手を動かしながら家族のことをいっぱい思っていたのでしょう。
これといった娯楽もせず、ひたすら台所に立って家族のためにお料理をつくり、夫の仕事も手伝い、生まれ育った町で死んでいった母。
私はそんな母よりもっと外に生き甲斐を求めて故郷をあとにしたけれど、結局一番落ち着くのはこうして家事をして、手を動かしているときのような気がします。
* * *
きっと手を動かすという行為は、左脳の疲れを和らげてくれる効果があって、左脳と右脳を理想的なバランスにしてくれるのだと思います。
しかし現代は手間のかかることは極力避けられ、手作業は非生産的とされて、隅っこに追いやられてしまった感があります。
そのためにアンバランスな感情に揺れて、自分を持て余している人もいます。
そんな人が何か手を動かすことで開けて来る道があるような気がします。
むそう塾で皆さんの手先を見ていても、不器用そうな人が結構多いです。
でもそれは絶対不器用というのではなく、手を使う機会が少なかっただけなんですね。
もっと小さい時から折にふれ時にふれ、手を使うことを日常的にしていたなら、もっと結果は違っていると思います。
それと一番の問題は、どんなに手先が器用でも学校ではあまり評価してくれないことです。
これがいびつな人間をつくってしまった最大の罪だと思います。
人間を丸ごと評価してあげる。
そんなことが学校教育で出来たらいいのに。
* * *
そういえば私が帰省すると、母の部屋にはいつもひ孫が何人も遊んでいました。
自分の家にランドセルを置くとすぐ母の所に遊びにやって来ます。
そして夕食までずっと遊んでいます。
お迎えに来たお母さんに「どうしてここがいいんだろうね?」と私が聞いてみると、「きっとここのテンポが心地いいんだと思います」と即答しました。
時間がゆったりと流れて、せかされないで自由に遊べることが楽しかったようです。
そのひ孫たちが中学生のときに母は亡くなったのですが、女の子は全員器用に編み物をしていたのが印象的でした。
「おばあちゃんに教えてもらったの」と嬉しそうに編んでいて、何だかウルッとしました。
ひ孫と母が一緒に編み針を動かしたであろうその時間は、きっとひ孫たちの情緒に大きな安定感を残してくれたに違いありません。
たまに帰った私がやきもちを焼きたくなるほど、ひ孫たちは母になついていました。
きっと一針一目ごとにひ孫たちと心を紡いでいたのですね。