私がマクロビオティックを知ってから、色々な先生に教わりました。
どの先生も素晴らしく、個性があり、博識で、私が残りの人生をかけても到達できないレベルの方々です。
そして、今もその先生方に教えを受けています。
私はどの先生にも可愛がっていただき、親身に相談に乗っていただき、とても恵まれています。
マクロビオティックに出会ったのは遅かったのですが、素晴らしい先生方にいつも接することができて、沢山のマクロビオティックシャワーを頂きました。
このご恩は一生忘れません。
そのお返しとして、先生方から教えていただいたことを、次の人に手渡ししていきたいと思って、「美風ゼミ」を開催しています。
* * * *
「マクロビ井戸端会議」や「美風ゼミ」で色々な人とお会いする度に、いつも思うことがあります。
実際は、「思う」というより、日増しに強くなっていく気持ちが、正直いって空しくなるほどの感情になってしまいました。
私は、桜沢先生の教えに反旗を翻すつもりはまったくありません。
(桜沢先生の教えに異を唱えるほど、私はマクロビオティックを理解できていません。)
むしろ、勉強をすればするほど、桜沢先生の説かれたことの偉大さに、ただただ感服するばかりです。
しかし、一つだけ、たった一つだけ、私の肌が、感情が、悲しくなる部分があるのです。
理論的にではなく、感覚的に揺れ動いているのです。
* * * *
マクロビオティックでは、よく「必然」という言葉を使います。
「この世に偶然はない、すべては必然」というわけですが、それを突き詰めていくと、たまらなく空しくなるのです。
例えば交通事故も必然。
火事も必然。
殺人も必然。
地震も必然。
病気も必然。
でも、神戸や新潟でもありましたが、地震で命を落とす人、被災する人を見ていると、すべて「必然」と言い切ってしまっていいのだろうかと思うのです。
同時に何千人という人達が被災していても、マクロビオティックをしている人は、「必然」の理論で片付けていいものなのでしょうか?
そんなにも多くの人に、何の罪があったというのでしょう?
どんな巡りあわせがあったというのでしょう?
* * * *
先日、秋田でぢゅんさんに再会しました。
ぢゅんさんはリウマチを患っていますが、私の知る限りの誰よりも人生を真剣に、前向きに生きていらっしゃいます。
いつお会いしても、誰がお会いしても、ぢゅんさんのその姿勢に頭を殴られた思いがします。
本当に清らかなその心が伝わって来る度に、「必然なんて言葉は、ぢゅんさんにだけは解除してほしい」とどれ程思ったことでしょう。
マクロビオティックでは、病気を陰陽で分類していきます。
そして、それに対応したお手当てをすることになるのですが、当然、お手当ての前段階として、病気の原因を判断しなければなりません。
その過程で、陰陽だけでは空しくなってしまうのです。
苦しむ人を前にして、被災者も、ぢゅんさんも、その他の病気の人も、「必然」なんて言いたくありません。
そんな血も涙もないのがマクロビオティックだなんて思いたくありません。
陰陽も無双原理も素晴らしいです。
でも、私は、マクロビオティックの理論に優しさを求めたいです。
◆参考までに
マクロビオティックと病気の追記は、こんな背景があって書いたものです。
◆関連記事