私がブログを始めた理由。
それは、息子のアトピーとどのように付き合って来たかを、多くの人に知ってもらいたいと思ったからです。
しかし、現実はつらいものでした。
記事を書こうと思えば、イヤでも過去のことを思い出さなければなりません。
血だらけになり、汁だらけになり、容赦なく襲う痒みとの戦い。
分別のついた大人でも耐え難いこの症状を、本来なら天真爛漫なはずの乳飲み子が、泣き叫びながら体中で訴えるのです。
その後何年にも及ぶアトピーとの闘いを、一字一字に想いを込めて書く作業は、正直なところ地獄の再現でした。
それで、今まで、その想いが果たせないままになっていました。
しかし、今回、「ナチュラル・ハーモニー」さんの磯野正弥さんが、「アトピーで苦しむ多くの人のために参考になれば」と、快く原稿の掲載をご許可くださいました。
なぜ、ここで磯野さんの原稿が?とお思いでしょうが、アトピーの治り方が、我が家の息子とまったく同じだからです。
そして、つらい思い出す作業を、磯野さんがすでにしてくれているからです。
磯野さんがこの原稿をお書きになるには、それはそれは苦しくて、つらかっただろうと想像します。
でも、使命感をもって書かれたのだろうと思います。
アトピーで苦しんだ人なら、誰でも思うはず。
「同じ病気で苦しんでいる人を助けてあげたい」と。
私は、磯野さんの原稿をお借りしてですが、アトピーで先が見えなくなっていらっしゃる方に、一筋の希望と光をお届けしたくて、この記事を書きました。
空気が乾燥するこれからの時期は、アトピー患者にとって、とてもつらい時期です。
でも、必ず良くなることを信じて、今を乗り越えてください。
磯野さんと私の想いが、アトピーで苦しむ多くの方々の転機になることを願っております。
以下、磯野さんの文章です。
* * * *
出して出して、
出し尽くすんだ!
? 濡れ続け、震え続けた
270日間の「アトピー」
との闘いを支えたものは? ?
こんにちは!
私はこのサイトを作成した、ナチュラル・ハーモニーの磯野正弥と申します。
私は21歳でアトピー性皮膚炎を発病して以来、12年間あらゆる治療を行ないました。”良い”といわれればすぐに飛びつき、後悔とあきらめ、そして自分の境遇を嘆く日々を重ねてきました。最終的にはステロイド剤の常用、しかも強力なものを塗り続けることで”問題の先送り”を続けてきたのです。
「自分は一生薬漬けだ、こんなことをしていたらいずれ重大な事態が訪れる。自分は長く生きられないかもしれない・・・、でもこんな毎日ならそれで良いのかもしれない・・・」、私を支配し続けてきた思いはこうしたものだったのです。
2003年から私はほぼ寝たきりの状態になりました。理由はすべての薬をきっぱりと断ったことが理由です。炎症を抑えるステロイド剤と12年間付き合ってきたのですが、すべてをやめ、自分自身の治癒力、私の中にある生命力、これにすべてを賭ける選択をしたのです。その間は辛い毎日でしたが、私を支え続けたのは自然栽培のお米と野菜たちであったのです。
このページは「理論編」と「体験談」とで構成されています。
私たちが本来の健康を「医療行為」の名の元に、医者任せ、薬任せにするのではなく、私たちに中、内側にこそ真の解決がある、こうしたことを考える一助になればと思います。
病気と体の関係、食べることの意味、そして薬に頼らない暮らしのあり方。こうした生き方を模索する皆さんの参考になれば嬉しい限りです。
その始まりは・・・
私は現在の勤め先である、2003年7月に入社しました。
その前は大手の有機野菜宅配団体に勤めていましたが、ナチュラル・ハーモニー代表の河名との出会いがすべてを変えました。
自分が売っているものは「本物」ではない。「有機野菜」という称号だけで良し悪しを判断してはならない。そしてそのクオリティーが分からないまま人に薦めることはできない。知っていながら、薦めることは重大な裏切り行為に他ならない。「本物を目指すんだ!」と心に誓い、転職を決意したのです。
しかし私のカバンやポケットには常に薬(ステロイド剤)が入っていました。転職して1週間を経った頃から体中におびただしい水泡が発生し、どうにもならない状態となりました。
2003年8月に入ってすぐ「体調不良」を理由に早退した日から約270日に及ぶ闘病が始まりました。炎症を抑えるため「ステロイド剤」を12年に亘り使い続けてきたのですが、2004年の7月にきっぱり薬をやめる決意をし、そこから約270日間の寝たきり生活を余儀なくされたのです。
その間は本当に辛い毎日だったのですが、私を支え続けたのは「自然栽培のお米と野菜」だったのです。
12年間との訣別
前職では営業という仕事、さらには”自然・安全・健康”を謳っていることから自分がアトピー性皮膚炎の患者であることを隠し続けてきました。薬が強力なこともあってか、病気であることをあまり知られることはありませんでした。私はこの病気を隠し続けてきたのです。それが薬が効かなくなってきた、ちょうどそのタイミングでナチュラル・ハーモニーに入社したのです。
私の仕事は個人宅配事業を立ち上げること。代表の河名からは「この野菜を全国に届けたい。磯野には個人宅配の責任者になってもらうぞ」と言われていました。入社の段階で症状は抜き差しならない段階にありましたが、「ええい!あとは野となれ山となれ!」、こうして私は個人宅配を立ち上げることを職務に入社しました。そしてあまりにも早くその時は訪れたのです。
すべてを賭けて
水泡が発症した段階で、私は決意していました。以後、薬は一切使わずに自分の中の治癒力にすべてを賭けること。自分は薬を使うのに、農薬も肥料も使わない野菜を人に勧めることはできない。たとえどんなことがあっても自分は耐え抜いてみせる。
自然栽培の生産者である木村さんのリンゴの木も肥料を辞めてから7年間は一度も実を付けなかった。それでも今はこんなに素晴らしい実を付けているではないか。たとえ時間がかかっても、必ず良くなる。畑から蓄積した肥料成分を抜く、自然栽培を志す農家が始めに取り組む課題ですが、私も長年蓄積した薬を身体から抜く決意をしたのです。
ナチュラル・ハーモニーでは働けなかったけど、自分の自然治癒力にすべてを賭けてみよう。いつの日か、必ず元気になってもう一度入社のお願いをしよう、私の気持ちは固まっていました。
代表の河名は「磯野、良かったな。この仕事はキレイな身体にならないとできないということだよ。個人宅配は磯野の復帰を待ってからにしておくから、この機会に全部出しちゃいな。」、そう言ってくれたのです。入社後2週間で就業不能なら退職するのが”世の常”のはず・・・。それが「全部出しちゃいな!」なんて・・・。
私はこの言葉に戸惑いと感動を覚えながら。一切の「無投薬治療」を開始しました。
夏の終わり
季節は「夏」。冷夏とはいえ、恐ろしい寒さとおびただしい水泡に震え続ける日々。「この先どうなるんだろう・・・」、止め処もない不安と苦痛が私を襲い始めました。2003年の夏は、こうして過ぎて行ったのです。
深刻化に向かう
「9月に仕事に戻る」、そう決めて1ヶ月耐えていたものの、症状は深刻さを増していきました。水泡はひどくかゆいので、掻くとそこから水が流れる。水の量は日を追うごとに増えていきました。
今まで薬で固めていたものが、薬を放棄した段階から堰を切ったように体外に流れ始めたのです。8月は出てくる水の色が透明だったのですが、この頃になると黄色に変わり始めました。
「蓄積してきた薬剤などの異物が出始めた」と河名から言われました。血と共に流れ続ける日々。水が乾くと固まって薄皮となる。体を動かそうとすると傷口とその薄皮に引っ張られ、ものすごく痛い。そうするうちに徐々に身動きが取れなくなっていきました。
消耗の日々
首は水が溜まり、ブヨブヨと3段首のようになってきました。足首は通常の3倍くらいに膨らみはじめました。鈍痛に襲われ続けているので足を高く上げることで痛みを緩和し続ける毎日。
顔は眉の上に水がたまり、ちょっと表現しがたい、”お岩さん”のようになっている。流れた水が固まって目が開かなくなる。口の下はザックリ割れはじめ、そこから毒血が流れ、やがて固まっていく。口も目も開かない、何をするにも不自由な状態になっていきました。全身ほぼ同じ状態になっていきました。
腎臓病、「ネフローゼ」のような症状。辛い毎日でしたが、気づきもありました。皮膚がものすごく柔らかくなっているのです。ほんの少し引っかくだけですぐ水が流れるのです。これは異物を体外に出すための作用で、全身一丸となって、「出すんだよ」という合図をしているのではないかと思っていました。しかし体力も気力も落ち始め、憔悴していく毎日だったのです。
主食の意味
「磯野の今の仕事は食べることだぞ!」と河名から何度も言われていたため、必死に食べ続けました。また『買ってはいけない』の著者・環境臨床医の三好基晴先生から「辛くても何でも、とにかく食べろ!
吐いてでも食べろ!」と電話で厳しく言われました。無投薬で自然治癒力にすべてを委ねる以上、体力がすべて。だから懸命に食べ続ける日々が続きました。
私たちの身体は、炭水化物を取ることで必要な栄養分を体の中で作ります。「主食」の米はその材料です。米を媒介に体内でブドウ糖に作り変え日々の「活動源」にしているのです。ですからクオリティーの高いお米を食べることは、良い水を飲むこと、自然に呼吸すること、よく眠ること、これらと同じように本質的で根源的な営みになるのです。
「おかずはいいから米だけは何が何でも食べろ!」、この言葉のままに河名が定期的に送ってくれる自然栽培のお米を食べ続けた日々。傷と皮が突っ張った状態で、背中を伸ばすことは辛いことでしたが、丸まった背中と腰で何とか台所に立ち続けました。
割れた口の下は開くたびに裂け、そこから血が流れる。何とか口を開き、泣きながらお米を食べ続けた日々。ほとんど開かない口だったため、食べ終わると周りにご飯粒がたくさん付いているような有りさまでした。食べることはものすごく辛いことでもあったのです。
「米や野菜がなくなる前に必ず言えよ。この場合、一切の遠慮は罪だからな」、河名は私にそう言ってくれ
ていました。私は自然栽培の米と少しの野菜を食べ続け、そのことで自分の治癒力を含めた生命力を引き
出すことに賭ける、こうした選択だったのです。
迷いの中で
この間、多くの親しい人から「とにかく放っておくのはまずい。病院に行け!」とか「そんな状態で1人でいるのは無理。両親に話しなさい」と、忠告を受けていました。
しかし私はこの症状に1人で耐え続ける決意でいました。確かに両親にすべてを話して、炊事・洗濯から解放されたらどれだけ”楽”になるだろうか・・・、心の中に「迷い」も生じました。しかしこんな状態を両親が見たら何が何でも病院に連れて行くだろう。母親に涙ながらに説得されてしまえば、覚悟が揺らいでしまうかもしれない。「黙ってみていろ!」、それは私の両親にはあまりに酷だと思ったのです。こう考えると、「たとえどうなっても、最後まで1人でやり抜く」、そういう強い気持ちが湧き上がってきました。
目の前に置いた薬
私はこの治療を自分の体を使った「実験」と考えていました。12年も薬を使い続けたにも関わらず一向に良くならなかった症状。これがどうなっていくのかを耐え続けることで確かめたかったのです。そしてもし元気になれたなら、肥料も薬(農薬)も使わない「野菜」を売る資格を与えられるのだろう、そんな風に感じていました。
しかし実際は余っていた薬を目の前において、これを塗りさえすればたとえ”一瞬”であってもどんなに楽になるだろうか・・・。あと2時間頑張ったら塗ってしまおう、今日までは頑張って「明日になったら」、そうやって何とか繋いでいく毎日でした。
先が見えない
「この先、何年もこのままかもしれない・・・」、ゴールの見えない闘病は尽きることのない不安との闘いでもありました。
生産者の木村さんのリンゴだって肥料をやめてから真っ二つに裂けた木があったではないか?今の自分はその状態で、もう少しすれば必ずよくなっていく。そう自分に言い聞かせてみる。でも木村さんのりんごの木は7年もの間、実をつけなかった。果たして自分はあと7年も「耐えきれるのだろうか・・・」、もう一人の自分がすぐに打ち消そうとする。
それでもすべてを賭けて始めたこと、そうやって気持ちを整理し、余計なことは考えないように務めました。
快楽と暴風
最大の快楽でもあり、苦痛でもあったのが入浴です。湯船に漬かることは出来ないので、シャワーで突っ張った皮を少しずつ洗い落とす。たとえわずかな時間であっても、あの突っ張り感から開放されるわけですから、これはまさしく”至福の時”。それもつかの間、入浴後には”地獄の苦しみ”が待ち受けているのです。
体温の上がった全身を毒が駆け巡る、そんな暴風に襲われ続けます。この苦しさはちょっと表現し難く、うめき苦しみながら嵐が過ぎ去るのをただ耐え続けるしかないのです。嵐が去った後は疲れ果て、自然と眠りに落ちてしまいます。この恐怖のあまり、短くて2時間、時には4時間も風呂場から出られない日々が続きました。長時間の入浴による脱水症状を避けるため、ペットボトルを凍らせた水を常時4本持ち込みました。「もうダメだ!もうやめてしまおう」、何度そう思ったか分かりません。
アトピーを絶対治す強い意志(2)に続く