私の誕生日に寄せてお祝いのツイートやお花をたくさんいただきました。
次々と届くお花やプレゼントのお品を前に、夫が「みんなに必要とされていていいね」と言っていました(笑)
息子は「芸能人みたい」なんて言っておりました。
本来ならお一人おひとりにお返事を差し上げるべきなのですが、こうしてブログで記事にさせていただきます失礼をお許しくださいませ。
改めて生きるということを考えてみますと、一口で言うなら「必要とされることの嬉しさ」に尽きるでしょうか。
この年令になっても私の存在を否定せずに、必要としてくれる人のいる嬉しさです。
やっと歩けるようになった子供でも、何かを取って親に渡すとき、親が誉めてあげるととっても嬉しそうに満面の笑みを返してくれます。
それが「誰かのお役に立てた」ことの喜びの原初的体験ではなかろうかと思います。
子育ての段階でも、介護の一面でも、「誰かのお役に立てる」・「必要とされている」というのは、人間の生きる希望につながると思います。
私くらいの年齢になりますと、衰えるばかりで成長がないように感じるかも知れませんが、案外精神的には成長するものなんですね。
むしろ歳を重ねるごとに、人間の奥深いところがよく見えてきて、年々歳を重ねることが愉しかったりします。
それは不確かだったことが確かになったり、言い切れなかったテーマでも結論が出せたりするからです。
それから改めて、人間は人間によって成長させてもらえるんだなぁと実感しています。
最初は親や兄弟から始まり、徐々に友達や他人から学ぶ機会が増え、仕事や娯楽などあらゆる場面から「人間性」というものを育ててもらうのだと思います。
生きる過程で自分自身が努力することは勿論ですが、それとて力としては微々たるものです。
やはり自分の気づかぬ側面を客観的に評価してくれる人の存在は大きいです。
友達の数を多くするのではなく、いかに本音でつき合える友達(もしくは知人)を持っているかが大事だと思います。
そして、それの多くは異性によって育てられるということです。
なぜか人間は同性より異性の影響を大きく受けます。
(いえ、マクロビオティックの陰陽で考えると、これが当然の結果なのですが。)
私は現在もなお夫や息子、そして多くの塾生さんに育ててもらっています。
娘がいない分、多くの女性に囲まれて沢山の娘を育て・育てられる経験をさせてもらっています。
誰よりも私を育ててくれているのは中川さんです。
辛抱強い中川さんだからこそ、手のかかる私の面倒を看てくれていると感謝しています。
心から御礼を申し上げます。
いつも心に留めていること。
・誰かの負担(重荷)になっていないだろうか?
・自分勝手になっていないだろうか?
・昨日より成長出来ただろうか?
・今日を遊べただろうか?
・万事にスマートであっただろうか?
最後に、お祝いのメールに添付されていたお写真を掲載させていただきます。
今朝の玄米ご飯だそうです。
嬉しかった。
メールをありがとうね。