情報と平和そして日本人

久しぶりに一人で温泉に行き、日常を離れて自由な時間を過ごした。
環境が変わると、考えも変わる。
ご一緒に自由な小径の散歩に、おつき合いいただけたら、嬉しい。

私がマクロビオティックの世界に入ってから、一番変わったこと。
それは、不安がなくなったことだ。
勿論、肉体面での変化も数多くあるが、今回は精神面のみに絞ってみたい。
現代は情報化社会といわれ、情報に遅れまいとする企業や個人がいっぱいだ。
確かに情報は、莫大な利益をもたらすものもあるので、無視できない側面はあるが、
受け手が疲弊していては、プラスの情報もマイナスに作用するだろう。

マクロビオティックを実践していると、情報に踊らされない断固たる意志が育つ。
その結果として不安がなくなるので、私も夫も生命保険を全部解約した。
マクロビオティックを始めて1年目のことだった。

今は、テレビや新聞、雑誌、インターネットの果てまで、広告がついてくる。
広告の狙いは“刷り込み効果”だが、これが曲者だ。限りなく“不安”をたれ流す。
不安は悪い波動となって、私達に追い討ちをかける。

息子(17歳)は、学校ですら情報発信基地と捉えているふしがある。
学校の授業科目は、自分が知りたい情報ではないらしい。
そのうえ、厳しい校則があって、刑務所に通学している心理状態らしい。
それで、放課後は自分の趣味に没頭しているのだが、いずれケイムショから
ドロップアウトする日が来るかも知れない。
その時は、今までの労をねぎらって、“好きな情報を求めて生きてごらん”と
送り出してやりたい。

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最近、風呂敷をとても愛する初々しい青年に出会った。
正確には2年半前に一度会っているのだが、その時には、“ちょっと変わった青年”
ぐらいの印象だった。
しかし、その後の私の感覚に変化があったのか、今回は、彼がとてつもなくスケール
の大きい人間で、日本人の原点を改めて教えてくれることに気がついた。
彼は、現代の日本人が忘れかけている日本の文化を、新しい感覚で世界に広めよ
うとしている。

では、日本の文化って何だったのだろうか?
大きな見方をすれば、“和”だと思う。
そもそも日本は昔、“大和”と呼ばれていたではないか。
浅学の私には、なぜ大和なのか解らないが、穀物を口にすると和むことを、先人は
知っていたとしか思えない。
こう考えると、漢字も本当に素晴らしい。
この漢字文化を持つ人種は、きっと“平和”を理解できる人間だと信じたい。

最近、若い歌手の中に、日本語を大切に扱う人が出てきた。嬉しい。
日本人が戦後を経て、真の日本人として成長し、地に足をつけた若者が登場して
来たことは、時代の要請だと思う。
また、彼らには、情報に毒されない独自の世界観を感じ、頼もしい。

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風呂敷は、どんな形の物も難なく包む。
少しぐらい大きくたって、自在に変化できる。
折りたたんで持参すれば、色々な使い方ができる。
これは、日本人の素晴らしさそのものではないか。
世界の各地で紛争が止まない現代、今こそ日本人が“和”を引っさげて登場する
時ではないだろうか。
風呂敷の中に、世界中をスポッと入れて、包み込んだらいい。

マクロビオティックを始めてから、爽やかな若者に出会うことが多くなった。
嫌悪感を感じる巷の若者とは、まったく異質のタイプだ。
彼らに共通しているのは、“玄米”を食べていることであり、その延長線上で日常を
見つめていることだ。

今、確実にこういった若者が増えつつある。
不安な情報が飛び交う現代にあって、彼らの存在は私達の世代にも希望を与えて
くれる。
爽やかな若者たちよ、互いに平和のために手を携えよう。


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幸せです

私は今、伊豆長岡温泉のこだま荘にいます。
金木犀の香りと虫の合唱に包まれて入る露天風呂は、骨の中からとろけるような感じです。
平日にも拘わらず、私にお休みをくれて、気持ち良く送り出してくれた夫に、感謝しています。
主婦は年中無休、特に小さい子を育てている時は24時間拘束状態なので、夫のちょっとした配慮に、
涙が出るほど嬉しいことがあります。
ゆっくり休んで、いっぱい充電しよう!


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父の死に想う(2)

<父の思い出>
私の兄弟は、姉・姉・兄・私の4人です。
父は母と結婚した翌年に出征し、何年かおきに帰ってきては出征の繰り返しでした。
最後の出征は兄が母のお腹の中にいるときで、父が帰ってきたら兄は5歳になって
いたそうです。

シベリアの捕虜生活から帰還した時、父の実兄が駅まで迎えに行ったのですが、
歯は抜け落ち、体はガリガリに痩せ、目だけギョロギョロした弟を目前にしても、
弟だと分からなかったそうです。父は40歳。
足掛け17年に及ぶ父の不在で、母はすっかり体力を消耗し、「肋膜」を患って
いました。

そこに父が帰ってきて母は妊娠するのですが、医者から「母親の命が危ないから
子供をおろしなさい」と言われてしまいます。
ところが、母はどうしても産みたいと言って、薬に頼りながら出産に漕ぎつけました。
そうして産まれたのが私です。

命だけあった父と母。
それでよく妊娠できたものだと感心してしまいます。
きっと、体の土台がしっかりしていたから、それらの悪条件を克服できたのだと
思います。
しかし、兄弟で私だけがひどいアトピーになり、ずっと苦しむことになるのですが、
それは、私を妊娠して出産するまでの、両親の体力を考えると当然という気が
します。

兄弟で私だけが、ずっと父のいる時に育ったためか、子供好きの父はとても私を
かわいがってくれました。
あぐらをかいて晩酌をする父の足の中に、スポッと納まって下から父ののど元を
見上げていると、何かしら食べ物が私の口に運ばれました。
父が外に行く時は、いつも私が背中におんぶされて、「セミのようだった」と近所
の人に聞かされました。

小学校の運動会では、いつも父が走ってくれて、その速さにビックリしたものです。
また、私が小学生の時、「お父さんの手」という題で詩を書き、それに対してNHK
から賞品をもらったことがありました。
父に見せると、嬉しそうに賞品と自分の手と詩を眺めていたのが、夕暮れ時の
山なみのように遠く、遠く思い出されます。

中学生になると、私は段々生意気になって、母から小言をたくさん言われるように
なるのですが、父は一言も叱りませんでした。
この辺から誤解が生じます。
父は弱くて、母は強い人だと思ったのです。

高校時代に無断で学校をさぼり、東京へ遊びに行ったたことがありました。
1週間ほどして帰宅すると、大騒ぎになっていて、母はピーピー怒りましたが、
父はたった一言「金はあるのか」と聞きました。
東京から帰るとき、きっと父に殴られるんだろうなと思って、私は内心ヒヤヒヤ
して家の玄関を開けたのですが、父の態度は意外で、のちのち鮮明に記憶に
残ることとなりました。

父の一言は無言と同様でしたが、母のありきたりの言葉より、ずっと、ずっと重くて、
ズ〜ンと胸に響いて、心から「悪いことをしてしまった」と、深く反省したのです。
今でも、「無言のことば」の威力を忘れません。

20歳の成人式。
式から帰って着物を脱ごうとすると、母が父に着物姿を見せてからにしなさいと
言うのです。
父は300メートルくらい離れた近所に行っていて、母が電話をかけると走って
帰ってきました。

玄関の戸を開けるなり、「お前もやっと大人になったか」と、私の着物姿を見ながら
泣き始めました。
母は「男が泣くなんておかしい」と言いながら、泣きます。
私は、二人を見ながら涙が溢れ、三人でしばらく泣きました。
父の涙を見たのは、この時が初めてでした。

*    *    *    *    *

社会人になって20代の時、つらくて、つらくて自殺しようと思ったことがあります。
当時、横浜に住んでいたのですが、遺書も書き、死仕度もし、北海道の方を向いて、
両親にお別れをしようとしたところ、涙が溢れるように流れ出て止まりせん。
その時、頭の中には、私を大切に育ててくれた両親の姿が、次から次へと現われて
きて、「先に死んではいけない」「先に死んではいけない」と私の気持ちを思いとどま
らせました。

今、心から思います。
人生の道を誤るか否かの分かれ目は、親の愛情を記憶にいっぱい持っているか
否かで、左右されるということ。

私が30代で法律の勉強をしていた時、四国の八十八ヵ所巡礼からの帰りだという
両親に、東京のホテルで会いました。
父の好きなお酒で珍しいものを、と思い沖縄の泡盛を持参して二人で飲みました。
70代になった父と、生まれて初めてゆっくり話をすることができました。

何しろ戦争から開放された時、父は40歳だったのですから、それから気が狂った
ように働く姿しか、私は知らないのです。
私の方もそれまで色々な経験をして、父は本当は強い人で、母の強さとは質・次元
の違うものなんだと理解していました。

そして、今は父の真の強さを素晴らしいと思うし、尊敬していると伝えました。
中学生の時は、それが分からなかったとも。
父はとても喜んでくれて、「そうか、そうか」と頷いていました。
その晩、私は父のベッドに潜り込んで、幼い子供のように眠りました。

*    *    *    *    *

一人だけ北海道を離れ、好き勝手なことをしていた私は、あまり両親のもとに
帰りませんでした。
祖父のお葬式で14年ぶりに帰ったように、冠婚葬祭の時のみ帰省していたので、
父には育ててもらっただけで、何も親孝行が出来ませんでした。
父が手術をするという電話が入り、ビックリして北海道の病院に直行すると、
父はベッドの上にしょんぼりと、肩を落として座っていました。

8人部屋にたったひとり、廊下に背を向けて、沈みかける夕日に浮かぶ父の
薄暗いシルエットは、今も目に焼きついて涙を誘います。
2年前に父と会ったときは、車の運転をしていたので、そんな姿の父を見るのは
初めてでした。

父の苦労をねぎらう言葉をかけると、母のことを「俺には過ぎた女だった」という
内容の話を始め、寡黙だった父とは思えないほど、胸の内を言葉にするのです。
私も父も涙を流しながら、いっぱい、いっぱい話をしました。
父は、肩を震わせながら号泣することもしばしばで、初めて見る父の姿に齢を感じ
ました。
何十年もじっと耐えていた胸のつかえが、少しは取れたのでしょうか。
その後、父はもう饒舌に話すことはありませんでした。

*    *    *    *    *

父には、子供が4人、孫が8人、ひ孫が11人いて、「おじいちゃん、おじいちゃん」とひ孫に慕われていました。
お葬式のときも、ひ孫達が声をあげて泣いており、その後も毎日お仏壇にお線香を
あげて、手を合わせてくれる小さな姿を見て、「父の最後は幸せだったなぁ」と、心から思いました。

母は体質も性格も陽、父は体質は陽、性格は中庸です。
見事な中庸で、母とのバランスをとったのだと思います。
マクロビを始めて間もない頃は、陽がいいのだと思いがちですが、父を見ていると中庸の素晴らしさが良く分かります。
私も中庸を目指して、マクロビの仲間に支えられながら、素晴らしい人生を切り開いていきたいと、新たに心に誓ったところです。

 
 

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父の死に想う(1)

<死亡原因>
死亡診断書には、「大腸がん」と書いてありました。
しかし、ガン特有の痛みはまったくなく、ベッドの脇で座っていた母は、
父が死んでも眠っていると思っていたほどです。
回診に来たお医者様が手を合わせるので、やっと死を知ったのでした。
まさに、眠るように亡くなったのです。

父は4年位前から「肺気腫」になり、急いで歩くと呼吸が乱れていました。
それでも、ゆっくり歩いてゲートボールを楽しみ、父が運転する車で
老人仲間を送り迎えしていました。

他にはどこも悪いところはなく(神経痛はありましたが)、元気だったので、
きっと風邪か、肺炎あたりが引き金になって、一気に亡くなるのかな?と
常々思っていました。
ところが、肺気腫が進行して入院したところ、検査で大腸ガンが発見された
次第です。

ガンは、ハイライトの箱より縦横とも大きかったのですが、最後まで痛みが
なかったのは、本当に不思議でした。
ガンの部位は、下行結腸で直腸に近いところでした。
しかし、ガンはいつごろから出来て、あるいは何が原因だったのか、
ちっとも分かりません。

父は食べ物の好き嫌いは何もなく、お酒も煙草も大好きでした。
玄米は食べていませんが、マクロビ的には、比較的陰陽のバランスがとれた
理想的な食事をしていました。
なにしろ、92歳になる母が一貫して手づくりしているのですから、欧米食は
入っていません。

*    *    *    *    *    *    *

父の死に顔はとっても穏やかで、いい夢をみて少し微笑んでいるようでした。
葬儀に参列して下さったお年寄りが、「あんなにいい顔で死ねるんなら、
死ぬのも怖くないな」と話しておられたのが、印象的でした。


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大森英櫻先生を偲んだ一日

  9:30 小牧市到着
10:30 伊藤先生の講演開始
     講演の内容は、後日ご報告します。 
同じ場所で、昨日「大森一慧先生」がお料理講習をされたそうですが、
小牧市に来る途中、「大森英櫻先生」が転んだ「岩倉」の駅に寄って、
お塩でお清めをなさったそうです。
そこから小牧市まで、バスの中で涙が止まらなかったとか。
私は、5月に大森先生が最後の講演をなさった場所に座って、これからの
勉強に、新たな1ページを加えました。
なお、大森先生の最後の講演は「記憶力と判断力」で、極度の緊張
状態にありながら、渾身の力を振り絞って、最高の名講義だったそうです。
さすがに、寝た状態の写真は遠慮したけれど、録音はしてあるので、
後日テープを販売してくれるそうです。
            *   *   *   *   *   *
帰りに、私も「岩倉」の駅におりて、玄米をひとつまみとお塩を少しおいて、
大森先生を偲んできました。


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