Facebookのタイムラインに「富士そば」の会長さんの記事が流れてきました。
私の住む街にも「富士そば」がありますが、一度も入ったことはありません。
前を通りがかってもピンと来ないからです。
しかし、この「富士そば」の会長さんの記事を読んでいるうちに、うなずける部分が多くて、人情味のあるところがいいなぁと思いました。
苦労人だからこの経営方法なのでしょうが、それは財力があるから出来ることと言ってしまわないで、他の企業もこんな雇用関係だったら、もっと世の中の流れも変わっていたのにと思えてなりません。
誰かに良くしてもらったら、その気持ちを忘れずに恩返しの気持ちでまた自分も誰かに良くしてあげられる人になろう。
若者たちがそんなふうに人生を考えて生きられる企業が増えたらいいな。
人間の温もりを大事にしたい私のための記事として、転載させていただきます。
ー転載はじめー
【前編】
『最初は名前も「そば清」だった!? 創業50周年の「富士そば」会長が語る“秒殺の土地選び”とは』 2016.11.14
首都圏で働くサラリーマンであれば、一度はお世話になっているであろう立ち食いそばチェーン「富士そば」(現在は東中野店を除く全店にイスがある)。
実は『週刊プレイボーイ』と同い年の1966年創業で、今年が50周年。今では1都3県に100店以上を展開する富士そばを築き上げた丹 道夫(たん・みちお)会長は、四国の田舎町から上京しては失敗を繰り返し、4度目の上京でようやく成功を手に入れた苦労人だ。
80歳を迎えた今でも現役バリバリで、店回りを欠かさない丹氏に波乱万丈の人生を振り返ってもらいつつ、客にも従業員にもやさしい超ホワイトな経営哲学を語ってもらった。
* * *
―50年前に富士そばを作られた頃は、どんな世の中だったんですか?
丹 社会の景気はものすごいよかったね。戦争で縛られていた反動で娯楽がたくさんあった。当時、池袋店が映画館の軒下を借りて営業していたんだけど、『性の氾濫』なんて映画をやっていたのを覚えてるなー。
―すごいタイトルですね(笑)。週プレもそんな時代に創刊しました。
丹 『週刊プレイボーイ』もすごいタイトルだよね。僕も最初は飛びついたもんですよ(笑)。
―会長は富士そばを始められる前から、かなり波乱万丈な人生を送ってきたそうですね。
丹 僕は四国の生まれなんだけど、上京しては夢破れてを繰り返してね。1回目は面接で不採用になって帰郷、2回目は電車を間違えて福島の炭鉱で働いたり、東京の印刷所で働いたりしたけど、住み込み先で南京虫に襲われて倒れちゃった。3回目は栄養学校を卒業して、病院で栄養士になったけど、父が病気になって帰らざるをえなかった。4回目の上京でやっと定住することができたんだよね。
―それは何歳くらいの時だったんですか?
丹 25歳くらいだったかな。その頃から電化製品が普及して、大手の会社が下請けに発注するんだけど、仕事が増えすぎて、下請けがついてこられないくらいだった。地方から人がどんどん東京に出てきて、その人たちにネジとかを作らせるでしょ。最初はその人たちに食事を作るおばさんたちがいたんだけど、そのうちおばさんたちまでネジを作るようになった。それで弁当屋が流行ったの。
僕はその頃、味噌汁の素を売る食品会社に就職したんだけど、その会社は弁当屋もやっていて、いつの間にか毎朝4時に起きて弁当を作るハメになったわけ。それから自分で弁当屋をやることになって、それなりに稼げるようになったところで、知人と一緒に那須の別荘地で土地を売る仕事を始めたんだけど、最初は全然売れなくてね。倒産寸前までいったところで売れ始めて、そこからV字回復して飛ぶように売れたの。
―当時は月商7億円を売り上げるほど大成功したと聞きました。
丹 弁当屋でも利益は出ていたけど、土地は桁が違ったね。田中角栄の列島改造論なんかもあって、土地を持ってれば神様みたいに言われる時代だったから。
―それがなぜ、立ち食いそば屋をやることに?
丹 僕は田舎から出てきて、やっと不動産で当たったわけだけど、今度はお金が余って、毎晩のようにコパカバーナへ遊びに行ってたの。
―デヴィ夫人も勤めていたという高級クラブですね。
丹 そう。デヴィ夫人はバラが咲いたような顔して綺麗だったね。そこでステーキを食べたり、肉の刺し身を食べたり、あとはオニオングラタンが大好きで、店員が「今日のオニオングラタンはどうですか?」って訊(き)きに来るくらい通ってた。
―それだけ豪遊してたわけですね。
丹 当時、1回行くと3万円だったから、今のお金にしたら30万くらいは使ってたと思う。でも、そんな生活も飽きてくるんだよね。それで友達とおにぎりを食べる旅行をしたんだけど、その時に停まった駅の軒下で、そばを売ってるおばあちゃんを見たの。みんな電車が出る前に駆け込んで食べていて、忙しい商売だなと思ったんだけど、東京も忙しいから売れるんじゃないかなと思いついた。
―それで立ち食いそばをやろうと?
丹 不動産が売れてきた時に、これはいつまでも続かないと思ったから、その時に役員が食っていけるようにしておこうと思って、立ち食いそばをやろうと提案したんです。だから最初は不動産の会社で経営していて、名前も「そば清」だった。
―そうだったんですね。経営は最初から順調だったんですか?
丹 珍しさもあってか、最初から飛ぶように売れたね。4.5坪の店で1日900食も出てたから。それからしばらくは、いろんな商売も並行してやっていたけど、立ち食いそばが一番いいと。それで専念して、今に至るわけ。ただね、立ち食いそばは儲かると思って、軽い気持ちで手を出す人がいるんだけど、そんな甘いものじゃない。今日も朝から店回りをしてたんだけど、うちの対面に違うそば屋ができてたから見に行ったんですよ。
―お客さんのフリをして?
丹 そう。かけそばを食べてきたんだけど、味もうまくないし、お客も入ってないのに7人も8人も店員がいる。あれは3ヵ月も保たないですよ。簡単なようだけど、やっぱりノウハウがあるんだよね。
―ではズバリ、富士そばが50年続いた秘訣はなんですか?
丹 もう一にも二にも場所だね。よく「ここに店を出しませんか?」と言われて、見に行くんだけど、大体1~2秒でダメって言うから、みんな「秒殺された」って言うんだよ。
―理想は駅前のサラリーマンが多い場所ですか?
丹 そうだね。これがまたないのよ、物件が。だから、今年は何軒新しい店を出すっていう目標を立ててる会社もあるでしょ? うちはそんな目標は立てない。いい物件があれば店を出す。なければ出さない。ただそれだけだね。
●丹道夫(たん・みちお)
ダイタンフード株式会社会長。1935年12月15日生まれ。愛媛県西条市出身。中学卒業後、地元での八百屋、油屋での丁稚奉公に始まり、その後は上京しては失敗して帰郷を繰り返すも、友人と立ち上げた不動産業で成功。1966年に富士そばの前身となる「そば清」を始め、1972年にダイタンフード株式会社を設立して立ち食いそば業に専念。現在はグループ会社8社、国内113店舗、海外8店舗を展開。55歳で演歌の作詞を始め、「丹まさと」の名で作詞家としても活躍している。著書に自身の半生を振り返った『らせん階段一代記』、富士そばの経営学を記した『商いのコツは「儲」という字に隠れている』がある。
(取材・文/田中 宏 撮影/綿谷和智)
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【後編】
『アルバイトにもボーナスを支給する理由とは? 「富士そば」会長が語る、超ホワイトな経営哲学』 2016.11.15
首都圏で働くサラリーマンであれば、一度はお世話になっているであろう立ち食いそばチェーン「富士そば」(現在は東中野店を除く全店にイスがある)。
実は『週刊プレイボーイ』と同い年の1966年創業で、今年が50周年。今では1都3県に100店以上を展開する富士そばを築き上げた丹 道夫(たん・みちお)会長は、四国の田舎町から上京しては失敗を繰り返し、4度目の上京でようやく成功を手に入れた苦労人だ。
80歳を迎えた今でも現役バリバリで、店回りを欠かさない丹氏に波乱万丈の人生を振り返ってもらいつつ、客にも従業員にもやさしい超ホワイトな経営哲学を前編記事(「最初は名前も『そば清』」だった!?…」)に続き、語ってもらった。
* * *
―富士そばは1972年に24時間営業を導入したんですよね。セブン-イレブンよりも早かった。
丹 僕が上京したての頃は泊まるお金がなくて、そば屋に入ったのね。店のTVで力道山やシャープ兄弟の試合を見て時間を潰してたんだけど、店のばあさんから「お兄ちゃん、もうそろそろ閉めるから出て行ってちょうだい」って言われて、上野のベンチで寝るわけ。あの時は寂しかったねー。
この間、僕はね、女房が出かけて帰りが遅かった日に、早く帰ってもつまらないから、ひとりで立ち食いそばを食べたの。そしたら昔のことを思い出してね、なんか涙が出ちゃって。寂しいのが一番嫌なんだよね。
―そんな想いもあって、24時間営業に?
丹 そう。今でも24時間やっていると、随分そういう人が来るんだよ。この間も男のコがスーパーで買ってきたおかずを隅で食べてたの。かわいそうだから、従業員に「熱いスープを丼一杯持ってってやりなさい」と言ったら、喜んで食べてたね。やっぱり東京は地方から出てきた人が多いから、家賃を払うのに精一杯な人も少なくないでしょ。
―お店的には、あんまり長居されても困りますよね?
丹 困るは困るけど、「出てってください」とは絶対に言わない。お互い様だから。従業員にも「冷たくしちゃダメ」と言ってるよ。いつかまたね、いいお客になるんだから。
―お店で演歌を流しているのも、会長のこだわりで?
丹 僕は「演歌がわかる人は他人の痛みがわかる人」だと思ってるの。昔、医者になったという女性から手紙が届いたことがあって、「受験に3度失敗して、途方に暮れていた時に富士そばで聞いた演歌に励まされて、もう一度頑張ろうと思いました」って書いてあったのね。
お店回りをしていると、従業員から「食べ終わっても歌をじっと聞いてる人が多いんですよ」と言われるんだけど、そういう話を聞くたびに演歌を流すのをやめてはいけないと思うんだよね。
―社内の会議室には「我々の信条」が貼ってありましたけど、従業員の生活が第一という経営方針があるそうですね。
丹 昔から母に言われてたの。「お金が欲しいなら、独り占めしちゃダメ。みんなに分けてやる精神がないと絶対に大きくなれない」って。だから富士そばでも、前年よりよければ給料を増やしなさいと言ってるのね。それさえしっかりしていれば、僕がどうのこうの言わなくても、みんな一生懸命やってくれる。
やっぱり東京にいる時は、お金がないと前に進まないでしょ。それは僕が痛いほど経験してきたから。汚いようだけど、やっぱりお金はあったほうがいいよね。
―アルバイトにもボーナスや退職金が出ると聞きましたが、本当ですか?
丹 出してるね。人間は平等なんだよ。僕は生まれた頃に父が死んで、母は僕を学校へ行かせるために再婚したの。でも、弟が生まれてからは、継父は弟ばかりかわいがって、僕はいじめられた。その時にみんな平等じゃないといけないと思った。それにそのほうが楽なんですよ。売り上げを増やせば、自分たちに返ってくるとわかってるから、僕が何も言わなくても、なんとかして売りたいといろいろ考えてくれる。
―今、世の中にはブラック企業と呼ばれる会社も多いですが。
丹 あれは損してるなと思うよ。なんでブラックにしなくちゃいけないかね。ちゃんと待遇をよくしてあげれば、みんな働くし、自分も楽ができる。どうしてそんなことをするんだろうね。ああいう企業の経営方針はよくわからない。
―大きい会社でも、内部留保でお金を貯め込むことが問題になっています。それについてはどう感じられますか?
丹 いや、これも内部留保なんだよ。みんなにお金をあげれば、やめずに働き続けてくれるでしょう。従業員は資産だから。
―そんな波乱万丈な人生を送られてきて、今、振り返って感じることはありますか?
丹 自分でもよくここまで来たなと思う。それはやっぱり、みんなのおかげだね。いい人に出会えたから。頭もいいわけじゃない、体も強いわけでもない、そんなハンパ者だから一生懸命やるしかない。そうしたら、みんながよくしてくれたんだよね。
―それは『商いのコツは「儲」という字に隠れている』という本を出すぐらい、ご自身が「人を信じる者」だったからじゃないですか?
丹 一緒に不動産をやった仲間に「どうして一緒にやったの?」って訊いたら、「丹さんには騙(だま)されないと思ったから」と言ってたね。すごく優秀な人もいたけど、悪い人は早く死ぬんだ。「後ろ向いたら石投げられる」なんて言ってた人もいたけど、いつの間にか死んじゃったね。やっぱり、それだけ苦労するんだろうな。
―今の若者に感じることはありますか?
丹 いいと思うよ。このままで。
―それはどういう理由で?
丹 そんなに苦労しちゃいけないと思う。僕自身、バカだなと思った。食べるのに苦労はしないけど、やっぱり大変なことは多いから。今の若者は賢いと思うな。適当に食べるお金があって、自分の人生をエンジョイするのはエラいですよ。
―でも、嫌々仕事してる人もいると思います。
丹 それはいかんね。自分にそぐわないことを嫌々する、そんな馬鹿らしいことはない。自分を変えるか、仕事を変えるか。もっとやりがいのあることをやらなきゃ。それが見つかるまでは、自分を探すこと。僕は自分に何が合ってるのか、本当にわからなかった。父に相談したかったけど、早くに死んでしまったしね。
若い頃に八百屋や油屋で丁稚奉公(でっちぼうこう)してた時は、何も面白くなかった。不動産も富士そばも自分の意思でやったから成功できたんだと思う。だから今の若者もやりがいのある仕事を見つけてほしいね。
―今は息子さんに社長を譲られて、世代交替もあると思うんですけど、最後に50年後の富士そばはどうなっていると思いますか?
丹 それは難しい質問だね。江戸時代は屋台で買える食べ物で、それが普通のそば屋になって、今は立ち食いそばもたくさんできた。僕はそば屋と聞いたら、35%の人が立ち食いそばをイメージしてくれたらいいなと思って、立ち食いそばのレベルを上げる努力をしてきたんです。
―昔に比べれば本当に手軽に安く、しかもおいしく食べられるようになりましたよね。
丹 でも、これがいつまで続くかはわからない。「丹さん、そば屋はいつかスパゲティ屋になるよ」と言う人もいるんだけど、それは間違いだと思うんだよね。スパゲティよりは、そばのほうが慣れ親しむだろうと。だから、あんまり個性を強くしたものはダメだと思うの。飽きられちゃうから。僕が一番不安に思っているのは、そばやうどんよりももっと手軽でおいしいものが開発されること。
―そんなことまで考えられていたんですね。
丹 そうなったら、そっちにいくかもわからないよね。ただ、うちは駅前のいい場所に100店以上確保しているでしょ。これは他の商売でも使えると思うから、違う業種に転換している可能性は考えられる。まぁ、例えそうなったとしても、50年後も残る企業になってほしいね。
●丹道夫(たん・みちお)
ダイタンフード株式会社会長。1935年12月15日生まれ。愛媛県西条市出身。中学卒業後、地元での八百屋、油屋での丁稚奉公に始まり、その後は上京しては失敗して帰郷を繰り返すも、友人と立ち上げた不動産業で成功。1966年に富士そばの前身となる「そば清」を始め、1972年にダイタンフード株式会社を設立して立ち食いそば業に専念。現在はグループ会社8社、国内113店舗、海外8店舗を展開。55歳で演歌の作詞を始め、「丹まさと」の名で作詞家としても活躍している。著書に自身の半生を振り返った『らせん階段一代記』、富士そばの経営学を記した『商いのコツは「儲」という字に隠れている』がある。
(取材・文/田中 宏 撮影/綿谷和智)
ー転載おわりー