<父の思い出>
私の兄弟は、姉・姉・兄・私の4人です。
父は母と結婚した翌年に出征し、何年かおきに帰ってきては出征の繰り返しでした。
最後の出征は兄が母のお腹の中にいるときで、父が帰ってきたら兄は5歳になって
いたそうです。
シベリアの捕虜生活から帰還した時、父の実兄が駅まで迎えに行ったのですが、
歯は抜け落ち、体はガリガリに痩せ、目だけギョロギョロした弟を目前にしても、
弟だと分からなかったそうです。父は40歳。
足掛け17年に及ぶ父の不在で、母はすっかり体力を消耗し、「肋膜」を患って
いました。
そこに父が帰ってきて母は妊娠するのですが、医者から「母親の命が危ないから
子供をおろしなさい」と言われてしまいます。
ところが、母はどうしても産みたいと言って、薬に頼りながら出産に漕ぎつけました。
そうして産まれたのが私です。
命だけあった父と母。
それでよく妊娠できたものだと感心してしまいます。
きっと、体の土台がしっかりしていたから、それらの悪条件を克服できたのだと
思います。
しかし、兄弟で私だけがひどいアトピーになり、ずっと苦しむことになるのですが、
それは、私を妊娠して出産するまでの、両親の体力を考えると当然という気が
します。
兄弟で私だけが、ずっと父のいる時に育ったためか、子供好きの父はとても私を
かわいがってくれました。
あぐらをかいて晩酌をする父の足の中に、スポッと納まって下から父ののど元を
見上げていると、何かしら食べ物が私の口に運ばれました。
父が外に行く時は、いつも私が背中におんぶされて、「セミのようだった」と近所
の人に聞かされました。
小学校の運動会では、いつも父が走ってくれて、その速さにビックリしたものです。
また、私が小学生の時、「お父さんの手」という題で詩を書き、それに対してNHK
から賞品をもらったことがありました。
父に見せると、嬉しそうに賞品と自分の手と詩を眺めていたのが、夕暮れ時の
山なみのように遠く、遠く思い出されます。
中学生になると、私は段々生意気になって、母から小言をたくさん言われるように
なるのですが、父は一言も叱りませんでした。
この辺から誤解が生じます。
父は弱くて、母は強い人だと思ったのです。
高校時代に無断で学校をさぼり、東京へ遊びに行ったたことがありました。
1週間ほどして帰宅すると、大騒ぎになっていて、母はピーピー怒りましたが、
父はたった一言「金はあるのか」と聞きました。
東京から帰るとき、きっと父に殴られるんだろうなと思って、私は内心ヒヤヒヤ
して家の玄関を開けたのですが、父の態度は意外で、のちのち鮮明に記憶に
残ることとなりました。
父の一言は無言と同様でしたが、母のありきたりの言葉より、ずっと、ずっと重くて、
ズ〜ンと胸に響いて、心から「悪いことをしてしまった」と、深く反省したのです。
今でも、「無言のことば」の威力を忘れません。
20歳の成人式。
式から帰って着物を脱ごうとすると、母が父に着物姿を見せてからにしなさいと
言うのです。
父は300メートルくらい離れた近所に行っていて、母が電話をかけると走って
帰ってきました。
玄関の戸を開けるなり、「お前もやっと大人になったか」と、私の着物姿を見ながら
泣き始めました。
母は「男が泣くなんておかしい」と言いながら、泣きます。
私は、二人を見ながら涙が溢れ、三人でしばらく泣きました。
父の涙を見たのは、この時が初めてでした。
* * * * *
社会人になって20代の時、つらくて、つらくて自殺しようと思ったことがあります。
当時、横浜に住んでいたのですが、遺書も書き、死仕度もし、北海道の方を向いて、
両親にお別れをしようとしたところ、涙が溢れるように流れ出て止まりせん。
その時、頭の中には、私を大切に育ててくれた両親の姿が、次から次へと現われて
きて、「先に死んではいけない」「先に死んではいけない」と私の気持ちを思いとどま
らせました。
今、心から思います。
人生の道を誤るか否かの分かれ目は、親の愛情を記憶にいっぱい持っているか
否かで、左右されるということ。
私が30代で法律の勉強をしていた時、四国の八十八ヵ所巡礼からの帰りだという
両親に、東京のホテルで会いました。
父の好きなお酒で珍しいものを、と思い沖縄の泡盛を持参して二人で飲みました。
70代になった父と、生まれて初めてゆっくり話をすることができました。
何しろ戦争から開放された時、父は40歳だったのですから、それから気が狂った
ように働く姿しか、私は知らないのです。
私の方もそれまで色々な経験をして、父は本当は強い人で、母の強さとは質・次元
の違うものなんだと理解していました。
そして、今は父の真の強さを素晴らしいと思うし、尊敬していると伝えました。
中学生の時は、それが分からなかったとも。
父はとても喜んでくれて、「そうか、そうか」と頷いていました。
その晩、私は父のベッドに潜り込んで、幼い子供のように眠りました。
* * * * *
一人だけ北海道を離れ、好き勝手なことをしていた私は、あまり両親のもとに
帰りませんでした。
祖父のお葬式で14年ぶりに帰ったように、冠婚葬祭の時のみ帰省していたので、
父には育ててもらっただけで、何も親孝行が出来ませんでした。
父が手術をするという電話が入り、ビックリして北海道の病院に直行すると、
父はベッドの上にしょんぼりと、肩を落として座っていました。
8人部屋にたったひとり、廊下に背を向けて、沈みかける夕日に浮かぶ父の
薄暗いシルエットは、今も目に焼きついて涙を誘います。
2年前に父と会ったときは、車の運転をしていたので、そんな姿の父を見るのは
初めてでした。
父の苦労をねぎらう言葉をかけると、母のことを「俺には過ぎた女だった」という
内容の話を始め、寡黙だった父とは思えないほど、胸の内を言葉にするのです。
私も父も涙を流しながら、いっぱい、いっぱい話をしました。
父は、肩を震わせながら号泣することもしばしばで、初めて見る父の姿に齢を感じ
ました。
何十年もじっと耐えていた胸のつかえが、少しは取れたのでしょうか。
その後、父はもう饒舌に話すことはありませんでした。
* * * * *
父には、子供が4人、孫が8人、ひ孫が11人いて、「おじいちゃん、おじいちゃん」とひ孫に慕われていました。
お葬式のときも、ひ孫達が声をあげて泣いており、その後も毎日お仏壇にお線香を
あげて、手を合わせてくれる小さな姿を見て、「父の最後は幸せだったなぁ」と、心から思いました。
母は体質も性格も陽、父は体質は陽、性格は中庸です。
見事な中庸で、母とのバランスをとったのだと思います。
マクロビを始めて間もない頃は、陽がいいのだと思いがちですが、父を見ていると中庸の素晴らしさが良く分かります。
私も中庸を目指して、マクロビの仲間に支えられながら、素晴らしい人生を切り開いていきたいと、新たに心に誓ったところです。













