突然ですが、人生の最期をあなたは設計されていますか?
あるいはあなたの身近な人は、人生の終わりについて何か意思表示をされていますか?
何も意思表示をしていないと、残された家族は困る場合があります。
私も父や母の最期にあたって、そのことを感じました。
何かひと言、これといった希望を残しておいてくれたら、手術に際して兄弟で意見が分かれなくてもいいのになって思ったのが父の時。
反対に母は、いつお迎えが来ても良いようにと、すべての準備を整えて毎朝般若心経を唱える暮らしをして、最期は子供たちも納得のお別れが出来ました。
生前に自分の最期はどうしてほしいのかを残される家族に意思表示しておくのは、先に逝く者としてのマナーだと私は思っています。
なぜなら、今は昔と違ってなかなか自分の思うとおりに死なせてもらえない現実があるからです。
黙っていると、家族の情で判断してしまう場合があって、心臓が動いているだけの状態になりかねません。
でも、常々マクロビオティックの考え方で暮らしていると、こんなときスッと答えが出せます。
人間は自分で食べられなくなったり、自分で排泄できなくなったりすると、それはもう生き物として終わりが近づいている証拠なのです。
つまり、生きて行くための陽性エネルギーが枯渇しかかっているわけですね。
そこに何かしらの感情移入をしてみても、生命ある者の本当の生きる姿ではありません。
むそう塾では「むそう塾スタイル」という言葉を使っていますが、それは「死」をも含めて無双原理で生きてみようという提案です。
私たちは常々自分の健康や死について、他人任せにしていないでしょうか?
お医者さんに丸投げするのではなく、まずは自分で自分のことは完結する生き方をしようというのがマクロビオティックの考え方です。
「生き切る」ということですね。
その過程でお医者さんの力を借りなければいけない時には、きちんとお世話になるのも良いでしょう。
しかし、あくまで生きる責任は自分にあるのだということを忘れてはなりません。
その基準になるのが、「自力で食べられなくなったら生き物としては終わりが近い」ということです。
あるいは、自力で排泄ができない時も同様です。
私の父も母も95歳で亡くなりました。
ともに癌でしたが、父は93歳で手術をし、母は痛みを取るために最後は入院しました。
父の手術に際しては、私を含む娘たちは高齢だから反対だったのですが、兄は情緒的判断で手術を希望しました。
兄の気持ちも良く理解できたので、最終的には私たち姉妹も手術に同意しました。
その時の私の一つの拠り所は、父はまだ食欲があって消化がちゃんと出来たからでした。
ただ、直腸がんで排泄に支障を来たしたのです。
父は手術が終わってから退院すると、母の手料理を「うまいな」と何度も言いながら笑顔で食事していました。
兄の希望はこれだったのです。
何年にも及ぶシベリア抑留生活のため、飢えと寒さでボロボロになって、命だけ残って帰国した父のために、1口でも多く食べさせてやりたかったのでした。
母は乳がんだったので、食欲も排泄も支障はありませんでしたが、痛みを取り除く(正確には感じさせなくする)薬のためにだんだん食欲は落ちていきました。
最期は眠るように亡くなったと兄から聞きました。
母の死に際に「今くれば間に合う」と兄から電話をもらいましたが、むそう塾の授業があったので北海道行きの飛行機に乗りませんでした。
母には心の中で手を合わせて。
(蓮根 むいた人:中川善博)