2020年6月15日付の毎日新聞夕刊に、よい記事があったので、転載させていただきます。
<コロナ共存「生命哲学」必要 感染拡大の中心地・NYで生物学者が考えた>
世界は新型コロナウイルス感染症を収束させるという共通の難題を抱えている。感染者、死者ともに世界最多の米国。感染拡大の中心地、ニューヨークでこの3カ月間過ごした生物学者の福岡伸一さん(60)は、人間とウイルスの関係をどう考えているのか。
ニューヨークの現地時間は深夜0時。日が高い東京から映像をつなぐと、福岡さんは地球上を覆う社会不安の正体を考察していた。「このウイルスが『新型』と名付けられたことによって、初めて出合う未知のウイルスという恐怖が先行しました。病気の名前に『新型』が付く時は要注意です」
なぜ新型とされたのか。「ゲノム(全遺伝情報)の解析技術の進展によって、中国・武漢で検出されたウイルスの全構造がたちどころに判明し、これまで知られているコロナウイルスとは違うタイプだと分かりました。ただし、かなりの部分は類似していました。なので、コロナウイルスの『一種』と呼んでいれば、これほどの混乱は避けられたかもしれません。最初の患者が武漢でたまたま見つかっただけで、以前からどこかに潜んでいたウイルスが顕在化したに過ぎません」
普段は東京に住む福岡さんは3月上旬、客員研究者を務めるロックフェラー大のあるニューヨークに渡った。春休みを過ごして帰国する予定だったが、現地での感染爆発で足止めされた。都市封鎖(ロックダウン)された街に身を置き、一部の経済活動が再開された今も現地に滞在を続けている。
日本は欧米諸国と比べて新型コロナの死亡率が低いことが注目されている。「理由はまだわかりませんが、少なくとも『民度の差』ではないでしょう。ウイルス株の差異かもしれないし、宿主側の遺伝的背景かもしれない。BCGなど免疫経験の差かもしれない。これらが解明されるにはもう少しデータと時間が必要です」と指摘する。
いつ収束するのか、誰にも先は見えない。長期的にはインフルエンザと同様、このウイルスと共存する社会になると予見する。福岡さんが考える「共存」とは、ウイルスの存在により起こる一定のリスクを受け入れること。「例えばクルマ社会に生きる私たちは利便性を享受すると同時に、交通事故を起こす危険性も知っています。新型コロナもリスクを受け止めつつ、共存するものになると思います」
長期的な共存には、ワクチンの開発や治療薬の確立が不可欠だ。「ただ、来夏に延期された東京オリンピックまでにワクチンや特効薬がすぐにも完成し、霧が晴れたようにコロナ問題が解消して、世界中が祝祭的なムードに包まれるということはないでしょう」。今、ワクチンの開発は世界的な競争の様相を呈する。「流れてくる情報には企業の株価を上げたいなどの思惑も垣間見える。ワクチンの安全性は長い時間をかけて検証しなければならず、拙速に進めて健康被害が出ると大変なことになる。政治的、経済的なものを紛れ込ませないために必要なのが『生命哲学』だと思います」
福岡さんはニューヨークに入る前、南米のガラパゴス諸島を訪ねた。旅したのはまだ、新型コロナの感染がほぼ中国に限られていた頃。進化論で知られるダーウィンが「種の起源」の着想を得た絶海の孤島は、長年の憧れの地だった。
そもそもウイルスとは何者か。福岡さんが語る解説は、思いも寄らぬものだった。ウイルスは細菌やバクテリアより小さく、遺伝子がたんぱく質や脂質で包まれているだけの単純な構造をしている。ゆえに、地球上に生命が誕生した最初の頃に出現した原始的な生命体と思われるが、ウイルスが現れたのは高等生物が登場した後だという。
「ウイルスは元々、私たち高等生物のゲノムの一部でした。それが外へ飛び出したものです。新型コロナウイルスはおまんじゅうのような球形をしていますが、皮に当たる部分は人間の細胞膜でできているのです」。私たちに脅威をもたらすウイルスも、自らに起源があるとすれば、撲滅しようもないことが分かってくる。
「ウイルスに打ち勝ったり、消去したりすることはできません。それは無益な闘いです。長い進化の過程で、遺伝する情報は親から子へ垂直方向にしか伝わらないが、ウイルスは遺伝子を水平に運ぶという有用性があるからこそ、今も存在している。その中のごく一部が病気をもたらすわけで、長い目で見ると、人間に免疫を与えてきました。ウイルスとは共に進化し合う関係にあるのです」
多様性こそが重要 教訓に
福岡さんは、新型コロナが示す教訓として、生命にとっての「多様性」の重要さを挙げる。「この世界では環境変化や天変地異が絶えず起こり、未体験の病原体も繰り返しやってくる。種の中に多様性があれば、感染してしまう個体がいる一方で、逃げ延びる個体もいる。進化は決して強いものが生き残るのではなく、多様性を内包する種が生き残ってきたのです」
現代社会に生きる私たちは、自然をコントロールできると過信していなかっただろうか。「最も身近にある自然とは、自分自身の生命だということを再認識する必要があります。人間は、自身の生命を所有し、管理し、効率化し、いつまでも変わらず生きていけると思い込んでいます。しかし、生命は本来的に制御できず、明日どうなるかも分からない。新型コロナ禍が教えてくれたことです。コントロールできないことを謙虚さや諦観を持って受け入れることが、本来の自然を大切にするということにつながります」
多様性を別の面から見ると、男性と女性が平等であることに立ち返るという。「生命の多様性は、雄と雌という二つの性があって、それぞれが違う遺伝子を持ち寄り、次の世代をつくろうと混ぜ合わせることで生まれる。誤解してほしくないのは、子供を持たないこともまた多様性の内側にあるということ。『産めよ増やせよ』という遺伝子の指令に背く自由に気づいた最初の生命体がホモサピエンス(現生人類)であり、そのことが人間を人間たらしめている。一人一人の生命が生産性にかかわらず価値を持つ、というのが人権の基盤です」
福岡さんが新型コロナを語る時、自由や平等に触れるのには訳がある。ニューヨークでは法的に外出が禁止された。今、窓の向こう側からは、黒人差別に抗議するデモのシュプレヒコールが聞こえてくる。日本でも罰則はないとはいえ、移動や集会の自粛が求められ、子供たちが教育を受ける権利や、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利が脅かされた。
「生命を守るという御旗(みはた)の下に、生命にとって基本的な人権が次々と制限された。今後さらに、AI(人工知能)による監視やデータサイエンス(データを用いた科学的知見)によって生命の自由度が制御される方向に進む可能性があります。果たしてこれは正しいのか。生命哲学から見て、多様性や自由が管理され続けるのは望ましくない在り方だと思います」
ポストコロナ時代を迎え、世界で行われた対応を今一度検証することが、次なるウイルスへの備えになるのではないだろうか。【鈴木梢】
■人物略歴
福岡伸一(ふくおか・しんいち)さん
1959年、東京都生まれ。京都大卒。米ハーバード大医学部博士研究員、京大助教授などを経て現在、青山学院大教授、米ロックフェラー大客員研究者。「生物と無生物のあいだ」など著書多数。福岡伸一さん