よく「丁寧に」という言葉を見聞きします。
語源由来辞典によると、昔、中国の軍隊で警戒や注意を知らせるために鳴らす金属製の楽器を「丁寧」といったそうです。
そこから、注意深くすることを「丁寧」と言うようになり、細かい点まで注意が行き届いていることや、礼儀正しく手厚いことも意味するようになったとか。
楽器のイメージは銅鑼(どら)のようで、兵士たちに確実に伝えるため、何度も念入りに叩いたことも「丁寧」には含まれているようです。
金属製の楽器なら当然のことながら傷がつきやすいでしょうから、その傷をつけないように扱うことに気を配ったに違いありません。
ですから今私たちが「丁寧に」と言って使っている言葉のイメージとかけ離れているところはないのですが、私はあえて上の意味に「慈しむ」というのを付け加えたいと思います。
掌で大切に撫でまわすかのような慈しみの気持ち。
そこには荒っぽさも無神経さもありません。
心地良い穏やかな世界です。
ところで「丁寧」というと「ゆっくり」だと勘違いする人がいます。
でも、丁寧はゆっくりだけではありません。
最初はゆっくりに感じることがあるかも知れませんが、本当の丁寧は「慈しみのある心地よいスピード」だと思います。
速くするべきところを遅くすると心地よくありません。
反対に速さはあっても慈しみがなければ心地よくありません。
対象に「慈悲の心」が持てるような行為と気持ち。
それが本来の「丁寧」なのではないかと思っています。
これはお料理をするときにも、お掃除をするときにも、誰かと話をするときにも、考え方や生き方にも影響します。
「慈しみのある丁寧」を手放さず、笑みを絶やさずに生きましょう。
【特にむそう塾幸せコースの皆さんへ】
「慈しみのある丁寧」。
これが身につけば桂剥きのレベルはグンと上がるはずです。
そして刻み方にも艶が出てくるはず。
あなたの手から良い氣が発せられることでしょう。
美風さん、
今、必要なことを
ありがとうございます。
丁寧。
その、美しさ、穏やかさを、身につけたいです。
身の回りが、世界が、変わりそうです。
こんばんは。
かつら剥きももちろんですが、私の炊いた玄米をじっくり見てみるとどうにも角が立っています。
やさしい氣は感じられないのです。
今朝も愛が無い玄米だなって思っていたところです。
美風さんがおっしゃられる「慈しみのある丁寧さ」が本当に足りないのでしょうね。
おはるさんと同じく穏やかさ、丁寧さを身につけたいと思います。
タイムリーな記事ありがとうございました。
美風さん
素敵な記事を有り難うございました
今の私に足りないものばかりです
これまで何かがうまく行かない時、必死になって自分勝手に力ずくで何とかしようとしていました
技術以前の問題でした
これからは優しい気持ち、慈しみの気持ちをもって取り組みたいと思います
おはるちゃん、こんばんは。
iPhoneのシャッターボタンを押すときも、エプロンの紐を結ぶときも、ゴミ箱に物を入れるときも、お箸を持つときも、庖丁を持つときも、いつもいつも丁寧さが必要です。
すべての行為に感謝の気持ちを忘れないようにしてね。
いしはらさん、こんばんは。
あらら、玄米ご飯に角が・・・。
きっとその時には心がまあるくなれていなかったのでしょうね。
これからもそんな時には、一度外に出て深呼吸をし、気持ちを入れ替えてから台所に立ちましょう。
凪の心で炊飯することを忘れていませんか?
慈しみのある丁寧さは、何よりもその行為をしている人が自然に幸せで満たされて来ます。
そこがポイントですからぜひ意識してみてください。
麗可ちゃん、こんばんは。
慈しみのある丁寧さってね、自然に笑みがこぼれ、心が穏やかになります。
それは対象に寄り添うことであり、自分が何かを積極的にしかけることではありません。
さらに慈しみのある丁寧さには待つ要素も必要です。
すべてにおいて「待つこと」は、人間性を高めるための最低条件でもあります。
美風さん、こんばんわ
お返事有り難うございました
はい、『待つこと』はとても苦手で昔はとてもせっかちでした
変わりたいので、これから何をする時も意識して行動します
大切な事を教えて下さって有り難うございました
麗可ちゃん、こんにちは。
そんなに前のめりに生きなくてもいいんですよ。
そんなに生き急がないで、「今」を味わいながら生きましょう。
熟成には時間が必要です。
急いでも子供が10年で成人にならないのと同じです。
気持ちが先に行っていると、「今」をきちんと生きられないから不安になります。
いつも私がお伝えしているように「今」を大事に生きましょう。
美風さん、こんにちは。
>本当の丁寧は「慈しみのある心地よいスピード」
この言葉にぐぐっと引きつけられました。
私はやっぱり、「丁寧」と「ゆっくり」を勘違いしていて、
ゆっくりゆっくり、頑固に自分のペースを押し付けていたのだなあと思いました。だからなんだかちぐはぐでした。
そして私は「慈しみ」ということも勘違いしていて、
自分が与える側にならなくてはと力が入っていました。
ただ感じる、ただ受け取る。対象がいつも先にある。
自分をからっぽにすると満たされるということが、少しずつ
わかってきました。
「慈しみのある丁寧」という言葉をありがとうございます。
これからは目の前のものに対して、自分の心が膝をついているかといつも問いかけたいと思います。
絹子さん、こんにちは。
会えなくなって寂しいですねぇ。。。
離れていても心はつながっているからね~。
まずスピードですが、何事にも心地よいスピードというのがあります。
急ぐべき時には手早く、ゆっくりで良い時には場の雰囲気をこわなさい程度の速さで。
問題はいつも同じスピードでしか行動できないことです。
スピードの陰陽を考えながら、使い分けられることが望ましいですね。
次に慈しみですが、相手に慈悲の気持ちを「与える」のではなく、自分が感謝の気持ちさえ失わないでいたら、自然と慈しみの気持ちが湧いてくるはずです。
そしてその慈しむ心を持った人の「存在そのもの」が相手にとっての慈しみにつながるのだと思いますよ。
つまり「何もしなくてもいい、あなたがそこにいてくれるだけでいい」というふうにね。
「存在そのもの」が慈しみに満たされていたら、それはそれは幸せなことだと思いませんか?
そこには自然と「丁寧」が存在します。
美風さん、こんばんは。
お返事をありがとうございます。
はい。美風さんにお会いできなくて寂しいです。
つながっていると言って頂いて、私とっても嬉しいです。
>慈しむ心を持った人の「存在そのもの」が相手にとっての慈しみにつながるのだと思いますよ。
ああ。素敵です。そういう人になりたいです。
最近仕事をしながら感じたこと、考えていたことの答えをたくさん頂きました。ありがとうございます。
むそう塾で教えて頂いたことが、毎日ぎゅっぎゅと濃くなっていって、私の日々がどんどんと加速しています。道がだんだんとまっすぐになっています。いつも感謝しています。
またお会いできる日を楽しみに生きています。
絹子さん、こんばんは。
ああ、道がだんだんまっすぐになって来ているんですね。
良かった~\(^o^)/
お互いに存在そのものに価値があるような人間を目指して頑張りましょう。
ずっと応援していますよ。