料理の奥深さ(3) 技術

物を切るって誰でもしていることなんだけど、これまた奥深い。
きっとどの分野でも切ることは重要な意味を持つと思うけれど、料理における「切る」行為はかなり重要だ。
それは料理の出来上がりの見映えだけでなく、味をも左右するからである。
そうであるがゆえに料理の修業に入った人は、切ることをとことん極めるんだね。
中川さんがおっしゃってたなぁ。
桂剥きのとき、これでもか、これでもかと思うほど練習をして先輩にみてもらうと、「よう練習したなぁ」と言いながらゴミ箱に捨てられるのだとか。
もちろん合格ではない理由は告げられぬまま。
それでもめげずに試行錯誤しながら練習をして持って行くと、ある日突然「水にさらしておいて」と言われて合格になるのだそうな。
その練習量は半端なものではないそうだけど。

相当レベルの高い世界の話だけれど、そうやって技術は向上して行くそうだ。
修業の厳しさをむそう塾で押し付けることはまったくないけれど、高度な技術を身につけるには大なり小なりそんな側面はあるように思う。
やはり練習に始まり練習に終わるのだなと。

落ち込む前にそれだけの練習をしたのかと自分に問わなければならない。
技術を身につけるには自分と向き合うことが不可欠だ。
それはその人の人柄であったり、育ち方であったり、生き方であったり、癖であったり、そんな諸々のものと向き合って、一つひとつを克服して行かなければならない。
往々にして「善い」要素の多い人が高いレベルを身につけられそうに思ってしまうが、そうは問屋が卸さないのが現実社会の面白いところだ。
人間的には難ありと思える人でも高い技術を身につけていたりする。
では、穏やかで凪の心でなんて言っているのは意味がないではないか?
いや、それは確かに意味があるのである。
重要である。
つまり人間には善い面も悪い面もあって、仮に悪い面が多くても、練習量がそれをカバーしてしまうこともあるという現実だ。
中川さんがよく口にされる言葉に「練習は嘘をつかない」がある。
ただ数をこなすだけの練習ではなく、一つひとつの練習を意味あるものとして回を重ねれば、それは「善」に近づくのかも知れない。
技術というものは誠に面白いものだ。

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コメント

  1. 中川善博 より:

    こんにちは
    極悪人と善人が同時に同じ練習をしたとすると、善人が早く向上して見事な腕を身につけるかといえばそうでもないのです。
    極悪人というのは極という冠が付くほどエネルギーが強いのです。 そのエネルギーを悪に向けるから人に迷惑をかけてしまう。ひとたびそのエネルギーが練習に向けられたら・・・。
    そういう事なのです。
    練習というのは人の心も傷も刃こぼれも錆も癖も直してしまう「砥ぎ」なのです。

  2. マクロ美風 より:

    中川さん、こんにちは。
    コメントをありがとうございます。

    エネルギーからの視点、納得です。
    特に最後の一行に唸ります。
    庖丁を研いでいるつもりが自分を研いでいるとは、、、ですね。
    珠玉の言葉をありがとうございました。

  3. より:

    美風さん、こんにちは。
    一連のお料理の記事、ありがとうございます。
    お料理を教えて頂きながら、
    それ以上に伝えて頂いているのは生き方だなぁと
    幸せコースもあと1回の今、改めて思っています。
    人間塾そのものだなぁ、と。

    中川さんのコメント、拝読いたしました。
    最後の一行、なんども読み直して、ちょっと鳥肌でした。

    今、二度目の桂剥き投稿をさせて頂いています。
    できていないことや苦手なこと、癖、
    それらはお料理の枠を越えて
    普段の生活や、生き方なんかにも本当に全部、通じていますね。
    なにかで苦手なことは、全部に共通して苦手です。

    桂剥きを堂々とできるようになりたい、という目標はもちろんあるのですが、
    それ以上に、自分ではなかなか直せないものを、
    桂剥きの練習を通してすこしずつでも、
    修正してけたら、と思います。

  4. マクロ美風 より:

    舞さん、おはようございます。

    ねぇ、中川さんの最後の文章には説得力がありますよね。
    厳しい世界をくぐり抜けて来た者のみが語れる血のにじむ言葉に感動しますよね。
    素晴らしい師のもとで学べる今を大事にしてください。

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