生きる力
ある日、会社から送ってもらった自然栽培の野菜、ピーマンとナスがダンボールの中で枯れてミイラ化していることに気づきました。植物の自然な姿に違うことなく身をつけ、やがて枯れていく。これを発見し、手にとってみた時、崩れ落ちるような感動を覚えました。気持ちが弱くなるたびに、この枯れたピーマンとナスを手にとって眺める。すると「絶対に負けない!」、そんな強い気持ちが甦ってくるのです。
また私の部屋にはパキラの木があったのですが、闘病開始からずっと水をあげられずに枯らしてしまいました。どうすることもできずにそのままになっていたのですが、ある朝、芽が出ていることに気づきました。
枯れてしまったこの木の中で一体なにが起きていたのだろう・・・、そこに自分の今とこれからの姿を投影せずにはいられませんでした。この小さな芽は私に何かを伝え励ましてくれている、無条件にそう信じ、必ず自分も元気になれるという確信を強くしたのです。
家族の愛
10月も終わり気温が一段と下がり、寒さに耐えられなくなってしまいました。もはや台所に立つことが不可能になりました。一人での闘病が限界に達したことを認めざるを得なくなったのです。河名に相談すると「それが一番だよ。ここまで頑張ってきたのだからご両親もきっと分かってくれるはず。家族の愛が必要な時が来たんだよ」と賛成してくれました。
母に電話し、思い切ってこの3ヶ月半のことを伝えました。母は涙声でしたが、治療に関しては一切口を出さないことを約束してくれました。一方、父は複雑な思いがあったようですが、同じように約束してくれました。こうして私は横浜の両親のもとへと戻りました。
私が来るなり床に皮膚が散乱しましたが、父と母は日に何度となく掃除をしてくれました。また嗚咽しながら苦しむ自分に対し、何も言わずに身体をさすってくれました。母がある時、「自分の命を賭けてやると決めたこと。このことであなたがどうにかなったとしても、それはしょうがないことだわ」、そんな風に話してくれたのです。
回復へ
実家ではつらい家事から解放されたこともあってか、心もすごく安定していきました。いつも両親がそばにいて、いろんな話しができることはありがたく、よく眠れるようにもなりました。11月、12月と両親に見守られながら症状は終息へと向かい始めました。やがて散歩ができるようになりました。そしてお風呂から15分で出られた時の歓喜は忘れることができません。
こうして2004年1月の始業から、私は仕事に戻ることができたのです。そして個人宅配「ハーモニック・トラスト」の立ち上げに向けた準備が始まったのです。
その朝のこと
2004年1月4日出社の朝。闘病前、わずか2週間しか働いていない私にとっては、この日は事実上の「入社式」と言うべき日でもありました。河名から「闘病」の最初に与えられたテーマ、「この仕事は体がキレイにならなければできない」、そのひとつの過程を終えて半年振りに出勤しました。
河名と久し振りの再会、私を見るなり「よくやった!」と抱きしめてくれました。そして「磯野は賭けだった。もし万が一のことがあれば、この事業も何もすべてが終わりになりかねなかった」、そのように私に言いました。あんな状態になりながらも薬も与えず、病院にも行かせなかった事実。マスコミに格好の話題を提供することにもなりかねず、事業が継続し得ない事態も覚悟したと話すのです。
自分を襲い続けた激しい症状のあまり、正直、河名が自分の事業を含めた人生のすべてを賭けて見守り続けてくれていたこと、河名の胸の内をこの時になるまで気づきませんでした。自分のことしか考えていなかったと反省する気持ちと言葉では表現できない感謝の気持ちが沸きあがりました。恥ずかしくも忘れられない大切な出来事。
ハーモニック・トラストの立ち上げ
私の復帰と同時に個人宅配「ハーモニック・トラスト」の立ち上げに向けた準備が本格的に始まりました。「病気は怖い、でも薬はもっと怖い」、そんな闘病を終えた私は「本物」だけを全国の方々にお届けしたい。自然栽培の野菜と天然菌のものだけに絞って、「これが本物だ!」と胸を張って言えるものだけを扱いたい。
たとえ無農薬であっても肥料を入れた野菜は一切扱いたくない!しかし現実の自然栽培の野菜は季節による入荷の不安定さや一時に集中する在庫、さらに野菜の品目も極めて限られているといった具合に越えなければならない壁が目の前に存在していました。
それぞれのご家庭の食卓に思いを馳せると「有機」のものも一部扱わざるを得ないのではなかろうか・・・、こうして頭を抱える日々が続きました。
縦木と横木
そんな折、むのたけじの詩集をめくっている時にこんな一節と出会ったのです。「家の柱を見れば縦木と横木がそれぞれ独立しながらもしっかりつながれ、家を支えている」、そうだこのイメージを具体化できないものだろうか?立場が違えども、暮らし手・作り手・そしてこの両者を繋ぐ流通がそれぞれの役割の中でしっかりと繋がり、支えあうイメージ。
「ハーモニックトラスト」のコンセプトはこうして決まったのです。そして3月の初回のお届け、22人の会員さんと一緒に始まったこのトラストは、桜が咲く頃には50名の仲間を迎えるまでに成長していきました。
そしてまた
無事離陸できた喜びも束の間、再び試練の時が訪れました。4月に入ると再びものすごい悪寒に襲われ、以前のあの反応が始まったのです。この間、三好基晴先生や河名からも「第二波が来るよ」と予言の如く言われていました。
仮に1回の排毒ですべて出し切ったとすれば体力が持たずに死に至ってしまうそうなのです。こうしたことを身体はきちんと知っていて自然に調節する。一波、二波、三波といった具合に間隔を置いて訪れるそうなのです。それぞれに間隔があり、その間に体力の回復を待ち、次の波が訪れるそうしたすごい仕組みが備わっているそうなのです。
2度目の闘病
そうして私にとって2度目の闘病が始りました。立ち上げたばかりの「ハーモニック・トラスト」、ここから離れざるを得ないことは断腸の思いでありました。無念さと桜が咲き乱れる中での闘病開始。頭では分かっていてもどうすることもできないイラ立ち。
「何で自分ばかりがこんな目に遭うのだろう」、自然と浮かぶこの思い。この世の春、そんな風に何となく浮かれて見える季節とは裏腹にどこまでも沈んでいく自分の心。そして再び訪れた身体の苦痛。しばらくは両親にも言えず、一人でいましたが次第に身体の自由を失っていきました。こうして再び横浜の実家へと戻りました。
「苦難のある人に贈る」
前回はまったく初めてのことで、まさに無我夢中。今回は二度目、すでに経験済みのことである程度の”耐性”が備わっていることを感じていました。厄介なのは「無力感」。会員さんは喜んでいてくれているだろうか?会社のみんなには迷惑をかけていないだろうか・・・。どうにもならないことを思い続ける。
2度目の排毒はこうした自分の心のあり方に向けた試練であると感じていました。それでも2ヵ月半くらいで症状が収まり、6月の半ばくらいには会社に戻ることができました。嬉しい気分もつかの間、復帰して1週間も経たないうちに恐ろしい寒さと身体の症状が始まったのです。そしてまたしても仕事を離れざるを得なくなりました。
何度でも
自分はこの繰り返しの中で生き続けなければならないのだろうか?責任を持って仕事に取り組むことはできないのだろうか?こうした思いに心が覆われてしまうのです。激しく落ち込む中、河名から連絡がありました。
「さぞや落ち込んでいるだろうな。今回の復帰は排毒の一時的な休憩だったと思えば良いんだよ」、そう言ってくれました。自分の苦しい胸の内を話すと、「迷惑かけているなんて余計なことを考えるなよ。今は身体からの反応に従っていればいい。社長の俺が言っているんだから余計な心配は一切無用」、そう言ってくれたのです。
そして8月1日、3度目の復帰。河名は「よくがんばったな。磯野には困難に真っ直ぐ向き合うことの大切さを教えてもらった。これから先、いつ倒れても、何度倒れても構わないからな」。私を信じて変わらぬ態度で待ち続けてくれた河名への感謝の気持ちが込み上げました。そして自分は”世界一の幸せ者だ”と強く思いました。
命の洗濯
こうして約270日にわたる私の「闘病」が終わりました。その後は元気に働いています。つらくて厳しい毎日でしたが、振り返ればわずか270日のこと。終わることなく訪れる痒くて辛い症状、一生手放すことができないと思っていた薬、常に余裕のなかった自の心。これらと分かれることができた喜びは命をもう一つもらったとしか言いようがありません。
それまでの12年間の苦悩、薬漬けの日々から卒業するための”命の洗濯”がこの270日間 であったと感じています。
最後に
私がこの苦しい闘病で学んだことは「生命とは本来的に完全である」ということです。問題は生命そのものが持つ力を高めていくのか?それとも低めてしまうのか?このことに尽きるのではないかと感じています。
身体には本来の状態に戻そうとする力が備わっている。病気の症状とはそのために必要な過程で、辛いからといって薬で抑え込むことは”問題の先送り”に過ぎないのではないかと感じています。たとえ時間がかかったとしても、根本的な解決は「身体の防衛力」を高めることでしかないと感じています。
私の薬歴、そしてこの間の排毒はまさにそのことであったのです。この長い文を読んでくださった皆さんが毎日の暮らしや実際に病気に直面した時に、少しでもこのことを思い出して頂ければと願うのです。病気に頼らない生き方、病気や症状と今までとは違った角度で向き合うことができるのではないかと思うのです。
肥料も農薬も使わない野菜やお米、そして本物の発酵食品を食べることは、完全である身体の能力を高め、本来の力を発揮させていくことに他なりません。それらを少しずつでも身体に入れることの意味、これからもこの「ハーモニック・トラスト」を通じて多くの方に伝えていきたいと思っています。
これまでとは違った食や医療のあり方、さらには家族が元気に生きるための一助になればと心から願います。
私の個人的な長文を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
「闘病余話」
ここまでの内容はナチュラル・ハーモニーの個人宅配「ハーモニック・トラスト」の会報で5回にわたって連載したものでした。
連載終了後、多くの方から「今の状態を詳しく教えて欲しい!」とか「どんな食事をしているのか?」といったありがたい質問をたくさん頂きました。そこで、本編では触れられなかった内容を「総集編」と題してお届けします。
発熱が転機
実は8月に3度目の復帰をしてから、しばらくは不安定な状態が続きました。時折、凄い寒さに襲われたり、軽い発疹が出たりという状態だったのです。転機は10月の頭に訪れました。それは40度の熱が10日間続いたことがきっかけだったのです。
鼻水と痰が続き、高熱にウナされ続けました。それは苦しいことだったのですが、よくよく思い返してみれば、40度の熱が出るなんてことは記憶がないのです。そんなことがあったなというくらい、久しぶりの出来事だったのです。特に薬を使い続けてきたこの12年間は熱が出たとしてもいつも微熱。すごく熱が出にくい体質だったというのが偽らざる感想です。
熱が出るくらい元気になった!
そして熱が下がってからは、不安定な状態は本当になくなってしまったのです。悪寒や発疹といったことはまったくといって良いほどなくなりました。
熱が出ている間、河名からは「磯野も熱が出るくらいまで元気になったんだなぁ」と言われ、また三好先生からは「アトピーは熱が出るようになったらほぼ大丈夫。今後は半年も寝た切りになるようなことはないでしょう」と言ってくださいました(「発熱」については前回の三好先生のコーナーをご覧下さいね)。
私の食生活
私はお米を日に4合食べます。もちろん自然栽培のお米です。お昼に弁当を広げると周りからは「何度見てもすごい!」とよく言われます。河名からは「世界で一番自然栽培米を食べる男」と言われたりもしています。おかずは本当に少しだけ、味噌汁は毎日朝と晩に飲み、「蔵の里750g」を1ヶ月で2パック使いきっております。外食はほとんどしません。
以前はお酒も飲んでいましたが、今は飲めません。すぐに頭が痛くなったり、飲めば戻してしまうことが分かり、「こんな苦しい思いをするくらいなら」とまったく飲まなくなりました。これも身体が”清まった証”であると自分では思っています。お茶もよく飲みますが、すべて自然栽培のものです。何だかトラストの宣伝?そんな感も拭えないのですが、すべて事実です。
父の断薬
「闘病」を過程で、もう1つ嬉しいことがありました。私の父は30年来、睡眠薬を飲み続けていたのですが、私がもだえ苦しみながら必死に耐える姿を見て、「睡眠薬をやめる」と宣言してくれたのです。
父は睡眠薬の副作用に悩んだ時期もありましたが、完全に薬断ちをすることができたのです。父いわく、「自分は絶対睡眠薬なしでは眠れない」といった暗示を自分でかけていたようだと言っていました。今は定年4年目、第二(?)の人生を料理に見出し、”男の料理教室”なる講座に通っている模様です。
健康は1日にしてならず
闘病12年、どんなに願っても、何をやっても手にすることが叶わなかった健康のありがたさを今は日々かみ締めています。感じることは「健康は1日にしてならず」、このことです。その思いから日々の食事や生活環境には注意を払い続けています。もちろんすべての薬剤や栄養補助剤の類は一切使っておりません。
今後ともこの「ハーモニック・トラスト」の会員の皆さんとともに、私自身、元気に、そして健康に、与えられたこの生命を燃焼していきたいと思います。